ドーハの悲劇、20年目の真実@ラモス瑠偉さん・Number

2013 年 10 月 17 日

アメリカワールドカップアジア最終予選から20年。
アメリカワールドカップの出場が閉ざされた1993年10月28日のイラク戦は「ドーハの悲劇」と語り継がられています。今回「ドーハの悲劇、20年目の真実」という特集でラモス瑠偉さんも掲載させていただくことになりました。
Number最新号「ドーハの悲劇、20年目の真実」

取材当日は当時を振り返りながら取材をして下さった二宮寿朗さんと淡々と話されるラモスさんが印象的でした。

ラモスさんは1993年10月28日を「FIFAワールドカップを本気で目指す意志が国民に刻まれた日」「はじまりの日」として振り返られていました。

ドーハの悲劇から近いワールドカップアジア予選を振り返ると、1986年のメキシコワールドカップを目指す日本代表はファイナルラウンドで韓国に敗れました。
そして、1990年のイタリアワールドカップを目指す日本代表はワールドカップ1次予選で敗退。今では想像もできないアジア1次予選敗退です。日本サッカー界の本当の悲劇といえるのではないかと思うスタッフです。

そこから1994年のアメリカワールドカップを目指す日本代表は、日本サッカーの歴史を変えていきました。1992年ダイナスティカップの優勝、1992年アジアカップ優勝、1993年アジア・アフリカ選手権優勝。アジアの勢力図を塗り替え、「日本サッカーがアジアの王者」としての基礎を築いてくれました。
アメリカワールドカップ予選は、プロサッカーリーグ開幕という追い風も受けて日本国民を巻き込んだ「全日本(サッカーの枠を超えた日本全体のパワーの結束)としてのワールドカップへの挑戦」だったと思います。

ラモスさんは、「日本がワールドカップで何かを成し遂げるためには、全日本として目的を成し遂げる強い意志と意欲、全力でひたむきな取り組みが必要」だと話してくれます。
さらに「本気で取り組むからこそ生じる現象(課題や試練)をひとつひとつ乗り越えていくことが大切」とも話してくれます。

ramosuni[1]    アメリカワールドカップアジア最終予選当時のラモス瑠偉さんのユニフォーム

ブラジルワールドカップまでの間に日本代表、日本国民は、どんな課題を抽出し、どんな試練を受け入れ、全力でひたむきな姿勢で乗り越えていくことができるのか。将来、日本がサッカーネーションになっていくために何が必要なのか。ラモス瑠偉さんの話から、私たち日本サッカーに関わる全ての人が試されているように感じるスタッフです。

(ラモスプロジェクトディレクター 角田)